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従順な敬意の価値

ただ従順であるだけのものに、どれほどの敬意が含まれてるんだろう。いや、残っているんだろうか。たとえば、ただ従順に、伝統に対して差し出されるうなじには果たして価値が残されているんだろうか?古典に対して目蓋を閉じたまま膝をつくことに、そういう仕方でする尊敬になにかが宿るんだろうか。従順であることと敬意を払うことはまったくちがう。盲目になること、なにかの概念や考えを固定して、見る必要を喪失させることのどこに敬意なんてものが残されているって言うんだろう。たとえば。たとえばなんらかの職業に就こうとする時に必要とされる卒業資格、それを…持っている、大学の名前というものは。それは理解できる。東大を合格するほど努力の出来る人間を雇用したいと希望するのは企業としてはまともな判断だと思うから。効率的だし、確率も高いんだろう、つまり、真面目に就労する人物を当てる。でもそれとはまったくちがう話のはずなのに、効率化された従順さを社会全般において適用しようとする人っている。たとえば中卒にはハイデガーは理解できない。または、20歳を過ぎた人間では絵は巧くなれない。はぁ。そんな風な従順さって柔弱だな。哲学を理解できるのは大学の哲学科を卒業した人間だけで、絵を一番巧く描けるのは芸大を卒業した人間で、…箱庭的な眩暈。そりゃあ哲学に詳しいのは大学の哲学科を卒業した人間でしょうよ。それを腐したりしてるわけじゃない。そうじゃなくって、自分自身への確信を抱くことに対して、社会の内部を円滑に効率的にランさせるための仕組みは全然関係ないじゃんか。自分の頭の上に東大教授が乗っかかってたらもう自分にはなにかを考えたり、求めたり、探ったりすることは必要ではなくなっちゃうの?たとえば東大の教授が宇宙を研究してたらもう自分がどんなに宇宙が好きでも宇宙のこと考えたりする意味って失われちゃうの?そういうのってエポケーっていうんじゃなかったけ?アパシー?まぁいいや。で、私は権威主義に対して一概に反抗的であれと言ってるわけじゃない。権威を持った人間というのは絶対に必要だから。(そうでなければ誰が異端を裁定する?)…そうじゃなくって、言いたいのは。その道の権威でなければなにも言う価値も資格もないし、思考することを希望することすら無駄なことであると思い込んでる人はさ、そういう人は自分の要求に対して、自然的に生まれてきた要求に対して、黙殺を決めるってことなのかな?って思うんだよ、つまりそういう従順すぎる人ってのは、物分かりの良すぎる人間ってのは。たとえば、自分は絵を描きたいと思ってるのに自分より巧い人がいると断筆しなきゃいけないの?だとしたらなんでこんなにたくさんのイラストで世界は溢れかえってるんだろう。そういうことだよ。自分より絵がうまい人がいても自分は自分の描きたい絵を描こうとして努力し続ければいい。頭の上に大友克洋が乗っかかってても、鳥山明が乗っかってても、誰が乗っかってても関係ないじゃん。ほんとに全然関係ないじゃん。なんでそういうことに落ち込む人っているんだろう?尊大なのかな?もしかして傲慢なんじゃないか?そういう人たちってきっと元々物分かりがよすぎるんだよ。つまり早熟だった子供が多いんじゃないかな。阿呆の阿呆踊りを見てるのが痛すぎて「そうならないでおこう。ぼくは踊らないでおこう。」とか思って生きているうちに思考が全体的にヤワになってるんじゃないかな。反骨精神を失いすぎてるんじゃないかな?誰かがきっと彼のロックな感情を叩き潰したんだろうな。でも、今からでも、少しだけでもいいから、やりたいと思うことを、自然な心の赴くままに自分にゆるしてあげたらいいと思う。もちろん、20歳を過ぎてから絵を描き始めた人間が画業を究め尽くせるほど巧く絵を描けるようにはならないかもしれない。20歳を過ぎてから本を読み始めた人間がボルヘスと同じ場所には生きてる間にはたどり着かないかもしれない。今さらプロの漫画家になんかなれないかもしれない。でも、それは外側の事実であるというだけのことであって、内面の、自分自身の内的要求とは連関してないと思います。だから、だからさ。頑張りたいと自分が願うなら、頑張ればいいじゃん。それでいいじゃんね。

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